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発売日:2008-09
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ウェイリー版 源氏物語〈1〉 (平凡社ライブラリー)
2009-03-21 ▼ ストーリー重視
古語→英語→現代日本語という複雑な訳なので、半信半疑で読み始めたらサクサク読めた。
系図がないとなかなか理解できない人物関係も、すっきりわかりやすく描かれているので、膨大な系図と首っ引きで読む必要がない。和歌も本文中で現代語に訳してあって、注釈をいちいちひっくり返す面倒もない。ストーリーの流れを重視して、引き換えに失ったものと言えば、華麗なその場の雰囲気や登場人物たちの衣装、調度などの描写ではないだろうか。実際に「スカーフ」「マント」「コート」などという言葉がそのまま出てくるのにはちょっと興ざめ。
与謝野晶子訳、谷崎潤一郎訳、高橋治の「窯変源氏物語」、大和和紀の「あさきゆめみし」(漫画)という順番で読んできて、ウェイリー版は訳では一番読み易い。平安の華麗な雰囲気を味わうには、「あさきゆめみし」を同時にお勧めする。
2008-11-01 ▼ 迷訳・誤訳も名訳に通じる
伊坂幸太郎を読むノリで、そのまま読むことができる源氏物語です。
これは四分の1分冊目で、桐壺から明石までが収録されていました。
たいていの書評には、読みやすいと書かれていますが、その通りです。
主語がきちんと書かれていること、過剰な敬語、謙譲語がないからでしょう。
登場人物に深い思い入れがないことがさいわいしているとも思いました。
訳者の情感がこもりすぎているのはしんどいものです。
ええと、迷訳、誤訳はかなりあります。
細かいところですね、微妙な感情表現が「外国人」ぽいのです。
例えば日本人の現代語訳なら「あわれにお思いになった」で済ますところを、場の状況に応じて
「可愛いところがある女だとますます好きになった」「みずぼらしくてうんざりし、気持ちが冷めていく」などと積極的に意訳をしています。
へぇ、光源氏ってそんなふうに思っていたんだと、何回も目から鱗が落ちました。
「賢木」「花散る里」「須磨流謫」「明石」についてはこのウェイリー版がとてもよかった。
源氏の政治的な敵味方の面々、女君たちの思いがじっくりとあからさまに書かれているからミーハー的にもたいへん面白いのです。
源氏物語は「須磨・明石」で挫折する読者が多いと聞きますが、ウェイリー版なら飽きずに先に進むことができるでしょう。
2008-09-30 ▼ 近代小説的源氏物語
源氏物語 1 ウェイリー版 (1) (平凡社ライブラリー む 4-1)
何度も現代語訳源氏物語を冒頭で挫折してしまった経験を持つ私が、桐壺・ははきぎと一気に読み進められただけども、以下に読みやすいかがわかるだろう。内容も一度ウェイリーという1920年代の人物の目を通しているだけあり(エリオットの荒地やジョイスのユリシーズと同時代だという)近代小説的な描写が随所に見られ、源氏がなぜ世界で注目を浴びたのかが理解できる。というより、近現代の小説を読みなれたものにとっては、とても読みやすく、抵抗なくいろんな発見を楽しむことができる。やっと最後まで読み通せそうな源氏の出現がウェイリーの日本語訳とはいろんな意味で面白い。
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発売日:2008-11-11
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源氏物語 2 ウェイリー版 (2) (平凡社ライブラリー む 4-2)
2009-04-10 ▼ 天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響き
ウェイリーによれば紫式部はこの物語のすべての登場人物の年齢や地位や境遇を一瞬たりとも忘れることなく各帖を整然と記述しているという。物語のディテールではなく、その壮大な時間的・空間的な全体構造をきちんと押さえてからこの翻訳に入ったことは、彼のいかにも几帳面で学究的な性格を物語るとともに、この翻訳と凡百の日本語訳との決定的な違いを生んでいる、と思った。
よく源氏物語はプルーストの失われた時を求めてと比較されるが、この両者に共通する骨太の物語構造と近代的な心理分析を最初に発見したのがこのエキセントリックなキングズ・カレッジアンだった。彼の翻訳を読んでみると、谷崎や与謝野は全体構造の強固さには無自覚にただ細部の美を舐めるように慈しんでいるにすぎないことがよく分かる。
原作は同一でも、それを極東のローカル文学にとどめるか、はたまた世界最高の文学に押し上げるかは、翻訳者の世界文学の理解の深さの差であることが愚かな私にもはじめてわかったような気がする。
流謫の地から権力の中心に復活した源氏は、二条の館を離れて春夏秋冬四つの季節の名前をつけた東西南北四つの対からなる広大な屋敷を新設し、そこに正妻の紫の上、秋好皇后(六条御息所の娘)をはじめ、明石の上、玉鬘、花散里なぞの愛人たちをそれぞれ配し、対から対へ、御殿から御殿へといくつもの渡り廊下を伝って、あるいは鑓水に浮かべた小舟で遊覧する。
乱れ咲く四季折々の花々と天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響きはまさにこの世に顕現した華麗な一幅の極楽絵図そのものである。ウェイリーはこのくだりを「モーツアルトの交響楽のなかの律動と似ている」、と評しているが、巻二四「胡蝶」を目にしている私の耳朶にも、たしかに彼の最後のハ長調交響曲の終楽章のコーダが遠く鳴り響いていたのであった。
巻末のウェイリーの「解説」も興味深いが、翻訳の佐復秀樹が多用している「主要な」
という現代日本語の使用法は、文法の正則に照らして正しいとはいえない。世間でよく使っている「親交を深める」というジャッグルした表現が正則から少し外れているように。
♪管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し 茫洋
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発売日:2009-01
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ウェイリー版 源氏物語〈3〉 (平凡社ライブラリー)
2009-03-21 ▼ 疾風怒涛の悲しみを読む
アーサー・ウェーリーによる源氏物語は谷崎などの翻訳とは一味もふた味も異なっていて、物語の進行速度がはやい。物語の推進を邪魔する枝葉の部分を大胆にカットしていること、紫式部が念入りにこさえた、どこが頭でどこが尻尾か分からない海鼠のような文章を、ここが主語、ここが述語、ここが形容句という風に因数分解して、抜群によく切れるナイフで整除しているために、そういう爽やかで明快な印象が際だつのである。
進行速度ということでは与謝野訳が早い方だが、仮にこれをモデラートとすると、ウェーリーはアレグロ、谷崎はアダージオというところだろうか。調子に乗ってもっと音楽に喩えると、谷崎版はフルトヴェングラー、ウェーリー版はトスカニーニ指揮のテンポで、この世界で3番目に偉大な交響絵巻を演奏している感じがする。(ちなみに1番は旧約聖書、2番はシェークスピア、3番の同着はプルースト)
この第3巻で源氏はあっけなく息を引き取り、物語は彼の息子の世代の活躍が始まるのだが、その疾風怒涛のプレストが、逆にこの不世出の大恋愛家にして大心理家の喪失の悲しみをそそっているのかもしれない。
葵上も、紫も、夕顔さえもが六条の御息所(「みやすんどころ」と読む)の怨霊に執拗に祟られてとり殺され、その恐るべき悲嘆が源氏のいのちを奪い去る。そしてその怨霊の呪いと祟りを当の御息所にさえ制御できなかったとすれば、平安時代の貴族や民衆の精神を支配していた魑魅魍魎の無量の闇の深さはいかばかりであったろう。
宮中を華やかに彩った美人も才子はもことごとく姿を消し、今年もまた紫の上があれほど眺めたかった桜が咲こうとしている。そして、その春の梅や桜の花々を目にした私たちは、あの美しく貞潔だった紫の儚い生涯と行方も知らぬ後生をゆくりなくも偲ぶことになる。思えば紫式部はなんという驚異の物語を遺したものだろう。
♪こぞの花いずくにありや春の風 茫洋
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レビュー評価 なし
発売日:2009-03
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ウェイリー版 源氏物語〈4〉 (平凡社ライブラリー)
2009-04-29 ▼ 平安のハムレット」と「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは?
アーサー・ウェイリーがもっとも高く評価し偏愛した源氏物語が、本巻に収められた「夢の浮橋」を含むいわゆる宇治十帖でした。
ここで活躍するヒーローは、源氏の息子、薫(しかしてその実体は、源氏の目を盗んで女三の宮と通じた柏木の息子)と匂(天皇と皇后の三男)、そしてヒロインは、八の宮の遺児である美人の三姉妹、総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟です。
とかく男はこの世では惚れた女には惚れられず、それほど好きでもない女性からは逆に愛を打ち明けられておおいに戸惑ったりいたします。薫と総角の場合は前者の典型で、男は熱愛しているものの、女の方では「いい人」カテゴリーに入れており、それでも再三再四のチャンスに強引に女をモノにすればいいのですが、草食系男子の薫にはそういう典型的な肉食系男子であるライバルの匂のような乱暴なことができません。爬虫類脳の指令が男根に直結している匂と違って、薫の内部では、大脳前頭葉からの突撃命令を下半身が拒否することが往々にしてあるのです。
その原因は彼の生誕の背後にひそむほの暗いコンプレックスであり、生存の深奥部に突き刺さったトラウマに基づくものでしょうが、このことが彼の生来身に備わったペシミズムとニヒリズムと遁世願望に根強く繋がっているのです。
生きたい。欲しい。しかし欲望できない。征服できない。このもどかしいジレンマを、この無防備なニッチを、ペニスむき出しの現世的人間、匂が激しく衝き、まず小芹が、ついで浮舟がその血祭りにあげられます。美しい想い人をキツネに奪われたカラスは無念をかみしめ己の浅はかさを厳しく責めながらますます自己滅却の衝動に駆られていくのです。
紫式部の時代からおよそ一〇〇〇年後の今も、宇治川の流れは思いがけず激しいのですが、宿命の恋のライバルに引き裂かれてこの激流に身を投じたはずの浮舟が、冥界のヴェールの底から蘇る日、薫と匂は果たしてどういう行動に出るのでしょうか? 「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは何なのでしょうか? 生きながら死せる存在であるわれらが「平安のハムレット」に、はたして起死回生の劇的な瞬間は訪れるのでしょうか?
あらんかぎりの幻想と夢と希望を世界に振り撒きながら、この人類史上最高最大の物語は、大団円に向かってひそやかに助走を開始したところで、まるでそれが作家の当初の計画であったかのように、不意に幕を閉じるのです。
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